本の感想の感想

読書の後の備忘録

「ファシスタたらんとした者」(西部 邁)の感想・書評

61点

 

本当に残念なことに自殺されてしまった西部邁氏の著作。

最後の作品なのかもしれない。

内容は、西部氏のこれまでの人生を振り返りつつ、生き方を中心に、様々な思考を述べた本。

まず印象に残ったのは、西部氏は小さいころから、自分の価値観、美学、あるべき姿

というようなものを持っていたということ。

印象に残ったエピソードで(うろ覚えだが)こんなものがある。

 

「西部氏が、とある友人から500円を貸してくれるよう頼まれた。500円がないと、三日、何も食べられないという。西部氏は、

『もし貸してしまうと、自分が三日間何も食べられなくなる』

ということを友人に伝えた。

それでも、結局貸した。

三日後、西部氏は友人に500円の返済を求めた(もしかすると、周りにも人がいたかもしれない)。

友人は、最初とぼけた。その後、追及すると、ようやく友人は500円を返した。

そのとき『二度とこういうことはしないでほしい』と友人は言った」

 

このとき、西部氏は言いようのない気持ちを味わったという。

友人に貸すことのできる心意気と、それでも裏切られたことを糧にしていく精神・・・こういうものが西部氏を作ったのだろう。

 

他に印象に残った話としては、9・11のことがある。

西部氏は、あの9・11で数万人が亡くなったことに関して、

「起こるべきものが起こった」

という認識と

「原爆の時は、数十万人が亡くなった」

という思いと、

「世界のあちこちで、(武力のみならず経済力的な物も含めて)テロのようなものが横行している。(だから当然の結果である)」

という考えを持ち、それを発信したらしい。

 

私はその考えが正しいのかどうか、わからない。

しかし、少なからず正しい面があることは間違いないと思う。

この話もそうだが、西部氏は自分で十分に考えたことを、そのまま述べている。

このことが最大の魅力だと思う。

そのあとプライムニュースを見たからではないが、ゲストの人の話の中身がないことはもう言いようがないほどだ。

西部氏の本は難しく、ほとんどよくわからなかった。

何度も読んだら、きっとそのたびに得るところがあるだろう。

 

西部氏が亡くなったことが残念でならない。

西部氏は、奥さんが亡くなられてから、死への思考をより深められたという。

この本の中でも奥さんのことが少し触れられているが、本当に素敵な奥さんだと思う。

 

上に記載した9・11に関する思考を、奥さんも持たれていた。

そして、それを奥さんは息子に話した。

息子は、「そんなこと言ったら、日本ではものすごくバッシングを受けるから言ってはいけない

と奥さんに言った。

それを聞いた奥さんは、

「なんてつまらないこというの、それでも・・・」

と珍しく乱暴な言葉をつかったという。

 

西部氏の本当によき理解者だったのだろう。 

ファシスタたらんとした者

 

 感想の感想

(以下カギ括弧内はamazonから引用)

西部邁とは何ぞや、この本に凝縮されている。
言葉に徹底的にこだわって書かれていてこれほどの文章、文体を書ける人は今やいまい!厳選された語彙の洪水を楽しんで浴びる。
ゆっくり噛みしめるように読む。」

→本当に洪水のようであった。はっきり言って一度ではとても理解できない。

理解できないほど分厚い氏の思考に触れるだけでも、価値があると思う。

 

「文章には多くのカタカナ語が混ざり、人にとっては読みにくいが、腰の据わリの悪い曖昧な翻訳日本語に、あらためて国際基準の定位置を与えようとする為の著者の工夫であり、用語の定義も行間から浮き彫りとなるようにされている。
粘り強く付き合って読むべき価値のある、我らの姿を鏡の様に映し出す、本物の知的著作である。」

→残念ながらちょっと忙しくてなかなかすぐに熟読するというわけにはいかないのだが、こんなふうに思う人が他にもいるということがうれしい。

 

「・・・氏が侠客たらんとしているからなのでは。

「侠」の精神とは、目の前に困っている人がいたら助ける。対象の善悪、好き嫌いは問わない。そして自分が手を差し伸べたことを恩に着せない、というものです。

侠客は同時に「仁」の精神を持ちます。「仁」とは、弱者に対する哀れみの心、所謂惻隠の情です。
理論を突き詰めた氏が辿り着いたのは、理論の重要性は勿論の事、同時に実践の重要性、所謂「義を見てせざるは勇無きなり」の精神だったのではと思います。

・・・仁だの侠だの浪花節かよという話ですが、古今東西、結果として人はそういうものが(たとえ建前でも)尊重されていた時代の方が、今より遥かにましであり、まともだったということを氏は様々な表現を駆使し、繰り返し繰り返し発信し続けている気がします。
氏がよく使う「常識・コモンセンス」も同様です。困っている人を助けるなんてことは、小学校出てなくても分かるだろと。」

→西部氏が仁、侠の精神をどの程度大事にしていたのかは、私にははっきりとはわからないが、なんとなくうかがわれる。

そういうものが大事なはずだが、あまり価値を置かれていないように見える今・・・本当に軽い、上滑りな言葉ばかりを聞かされて、もう何が大事なのかわからなくなってくることも多い・・・そんな気持ちや寂しさを、西部氏の著作やこういうコメントを見ていると、逆に痛切に感じることがある。